セミナー「リスクマネジメントの変革」開催レポート―リスクを価値創造の源泉に変える次の一手とは

一般社団法人リスクマネジメント・プラットフォームは2025年11月27日(木)、大手町プレイスホール&カンファレンスでセミナー「リスクマネジメントの変革 ~次の一手が未来を変える」を開催。基調講演と4つのセッションを通じて、リスクを「回避・低減する対象」から「価値創造の源泉」へと捉え直すためのアプローチを多角的に議論しました。
開会挨拶には、日本におけるリスクマネジメント研究の第一人者である慶應義塾大学商学部の柳瀬典由教授が登壇。ピーター・ドラッカーの言葉を引用しながら、「利潤はリスクテイクの対価であり、適切なリスクテイクこそが成長の原動力です」と強調。「組織としてブレーキ(管理)が備わっているからこそ、アクセル(挑戦)を踏み込める。今こそ守りから攻めへ転換すべき時です」と呼びかけました。
方向性を見誤らないために必要なのは「大局観」
羽生善治 九段が語る決断の仕方と時間軸の読み方
将棋棋士として40年以上にわたり第一線で戦い続け、現在も年間50局以上の対局をこなす羽生九段。前人未到の1600勝という偉業を達成しながらも、「完璧に指し切れた」と言える一局はほとんど無いと言います。
想定外の事態に直面した際に真価を発揮するのが「柔軟な判断力」です。羽生九段は「重要なのはミスをゼロにすることではなく、ミスをした後にどう立て直すかです」としたうえで、以下のように説きます。
「人間は失敗した瞬間、後悔や自責の念に引きずられ、冷静な判断力を失いがちです。その結果、状況がさらに悪化する『負の連鎖』が起きます。だからこそ一度立ち止まり、冷静さを回復する。そして『初めてこの局面に遭遇したとしたら、自分はどう考えるか』を自問し、ゼロベースで状況を再評価するのです。反省や検証は重要ですが、まずは目の前の局面を立て直すことに集中することがそれ以上に重要です」。
もう一つ、羽生九段が重要だと指摘するのは「リスク評価の時間軸」です。現時点で最もリスクが少ない戦法は「指し慣れた形」を選ぶことです。しかし10年後の視点から振り返れば、それは「過去に固執し変化を避けた」リスクの高い行動と映りかねません。羽生九段は「どの時間軸で判断するかによって、同じ選択でもリスク評価は変わります。細部にとらわれて全体像を見失うのではなく、変化の中でも目指す方向性を見誤らない『大局観』を持ち続けることが欠かせません」と力説します。
講演後の質疑応答では、「短期的な勝利と、長期的な成長のバランスをどう取るか」という質問が寄せられました。羽生九段は「大きな賭けより、日々の小さな工夫の積み重ねが大事です。不調の時こそリスクを取って変化すること。そして『ここまでなら耐えられる』という自分の『許容の限界』を把握しておくことが、判断の軸になります」と答え、講演を締めくくりました。

将棋棋士 羽生 善治 氏
「守り」から「挑戦のインフラ」へ
3社が語るリスクマネジメント変革
松本氏は冒頭、「リスクマネジメントは『守りの仕組み』ではなく『企業が挑戦するための前提インフラ』へと再定義されつつあります」と説明。「これからはオペレーショナルリスク中心の枠組みから脱し、価値創出につながるリスクテイクを促す仕組みへと転換する必要があります」と述べ、その要素として以下の3点を示しました。
- リスクテイクに着目した活動
- リスクファイナンスを統合した対応
- 経営会議や投資判断と連動するビジネス密着型の運用

デロイト トーマツ リスクアドバイザリー合同会社(現・合同会社デロイト トーマツ) パートナー 松本 拓也 氏
リスク文化の観点からディー・エヌ・エーの稲村氏は、2017年の重大インシデントを機に管理体制を大幅に強化した経緯を紹介しました。事業・システム・組織の細部にわたりリスク管理を導入していきましたが、次第に過剰感を抱き、2020年に事業部主体の運用(現場主導のリスクマネジメント)へ舵を切ります。2024年に外部評価を受けた結果、「トップの思いを伝えられていない」「オペレーショナルリスクに偏っている」といった課題も明らかになり、トップメッセージの策定、それを踏まえた重点リスク選定等フローを再構築し、戦略リスクを含むエンタープライズリスクマネジメント(以下、ERM)へ発展させたと言います。

株式会社ディー・エヌ・エー コンプライアンス・リスク統括室 室長 稲村 直穂子 氏
一方、LINEヤフーの八代氏は、リスクマネジメントとリスクファイナンスを分断しない運用に取り組んでいると述べました。同社ではこれらを「経営に統合されたリスク判断プロセス」として再設計していると言います。従来、保険は総務が扱う付帯業務と見なされがちでしたが、八代氏は「保険購買は財務的なリスク受容・移転を判断する行為であり、経営と切り離して語るべきではない」と強調しました。
同社ではリスク領域ごとに主管部門を明確化し、企業包括賠償責任保険や専門職賠償責任保険等、専門性の高い保険をリスクマネジメント部門が統括しています。これにより、事業リスクと財務インパクトを同じ軸で整理できる体制を整えています。特に損害額の不確実性が高いサイバー領域では、外部ブローカーと連携しながら付保水準や免責額、潜在損失の幅を丁寧に評価し、経営陣が適切なリスクテイクを判断できるよう情報整備を進めています。

LINEヤフー株式会社 ガバナンスCBU RC CBU リスクマネジメントユニット ユニットリード 八代 峰樹 氏
さらに日立の橋本氏は、リスクマネジメントを経営プロセスに統合するための取り組みを紹介しました。従来、同社のリスクマネジメントは、縦軸の各事業部門と横軸のコーポレート機能部門(財務・人財・調達等)が、それぞれ個別最適で運用しており、連携が不足していたため、全社的に“真に重要なリスク”を把握しにくいという課題があったと言います。こうした状況を改善するため、2020年にグループ全体のリスク統括責任者(CRMO)を設置し、2024年には横断的なERM基盤となる「日立グループリスク管理規程」を制定。これにより、経営と事業をつなぐ統合的リスクマネジメント体制へと進化させました。

株式会社日立製作所 リスクマネジメント統括本部 統括本部長 橋本 秋芳 氏
最後に長谷川氏は「事業側がアクセル、リスク部門がブレーキでは対話が生まれにくい。だからこそ、見えていないリスクまで率直に議論し、挑戦とリスクの両面を俯瞰することが重要です。そうした対話が健全なリスクテイクを支え、よりよい経営につながります」と述べ、セッションを締めくくりました。

デロイト トーマツ リスクアドバイザリー合同会社(現・合同会社デロイト トーマツ) パートナー 長谷川 孝明 氏
なぜ保険を買うのか
“Why”の言語化から始まる変革
「リスクマネジメントとファイナンスをどのように融合させるか」は、多くの企業が抱える共通課題です。一般的に日本企業では、損害保険を「安心を買うコスト」と捉えがちで、リスクマネジメントとリスクファイナンスが分断して運用される傾向があります。その一方で、「保険を調達する理由」や「どこまでリスクを許容するのか」を言語化できている企業は多くありません。原氏は「現状では両者がうまく連動していません」とし、その要因として以下の3点を挙げました。
- 目的の曖昧さ
- 全社的な視点の欠如
- 経営層の関与不足

マーシュ ジャパン株式会社 バイスプレジデント兼セールスディベロップメントチーム シニアアドバイザー 石田 浩章 氏
一方、田嶋氏は「リスクは本質的にオフバランスの負債(※1)です。その負債にどう資金手当てするかは、財務KPIに照らして『どこまで許容できるか』を数値で定義すべきです」と指摘します。その指標となるのが「トータルリスクコスト(TCoR)」です。
※1 オフバランスの負債……貸借対照表に計上されない潜在的な負債

マーシュ ブローカー ジャパン株式会社 シニアバイスプレジデント/リスクファイナンスアドバイザリー プラクティスリーダー 田嶋 英治 氏
最後に原氏は、議論の核心として「経営層の関与」を強調し、「CEO(最高経営責任者)、CFO(最高財務責任者)、そして最高リスク責任者(CRO)が一体となり、リスクマネジメントとリスクファイナンスの統合を前提とした経営計画を策定する必要があります。トップ自らがその意図を明確に語ってこそ、企業全体がリスクを価値創造の文脈で捉えられるのです」と訴求しました。

マーシュ ブローカー ジャパン株式会社 カントリーセールスストラテジーリーダー, ジャパン/グローバルリスクマネジメントチームリーダー 原 智昭 氏
AI活用の理想と現実
ERM領域での試行錯誤
日本精工の工藤氏は、「ERM領域でのAI活用は、現在のところ翻訳用途にとどまっています」と説明します。一方で、品質保証領域では、蓄積された品質トラブルデータの可視化や要約にAIを活用しており、さらにBCP領域での災害時の行動提案や初動対応における報告の自動化等を目指す等、AI活用の取り組みを進めていると言います。

日本精工株式会社 経営企画本部 ガバナンス管理部 グループマネジャー 工藤 朝道 氏
ERM領域でAIに期待されているのは「リスク予測」です。ただし、AIが精度の高い予測を行うには、その前提となるデータや体制の整備が欠かせません。牛島氏は、その前提となる「早期警戒の仕組み」として、同社が進めるデータ起点の取り組みを紹介しました。
同社の多様な事業のデータを分析すると、顧客行動や市場変化を示す“弱いシグナル”が早期に現れると言います。牛島氏は「これらを横断的に収集・分析し、未顕在のリスクの芽を察知するための基盤づくりに取り組んでいます」と説明します。

株式会社リクルート リスクマネジメント室 決済金融リスク統括部 部長 牛島 向陽 氏
最後に小山氏は「AIは期待値が大きい一方で、活用はまだこれから。しかし、ここまで進化した技術を使わないこと自体が最大のリスクになりつつあります」と述べ、AI活用への一歩を促し、セッションを締めくくりました。

日本アイ・ビー・エム株式会社 テクノロジー事業本部 データ・プラットフォーム事業部 製品統括営業部長の 小山 政宣 氏
レジリエンスを軸に据える「欧州先進企業の実践」
セッション4「海外におけるリスクマネジメントの実務」には、フィンランドの石油・エネルギー企業Neste Oyj、欧州大手ECプラットフォームのZalando SE、Deloitte Globalがオンラインで登壇し、各地域・産業における先進的な取り組みを共有。本セッションに通底するキーワードである「レジリエンス(不確実性への耐性)をどう組織の中心に据えるか」を考えました。

続いてNesteのHead of Risk Management and InsuranceであるNiina Heiniemi氏は、長期的レジリエンスの構築に向けた同社の戦略を紹介しました。Nesteは廃棄物・残渣由来原料を扱う高度なサプライチェーンを持ち、規制変化や地政学リスクの影響を受けやすい産業構造にあります。同社では、将来の不確実性に備えるために、買収による事業ポートフォリオの拡張や、新素材・新燃料に関する研究開発投資を進めています。これらは単なる事業拡大ではなく、「外部環境の変動に対する耐性を高める」レジリエンス基盤づくりそのものだと言います。Heiniemi氏は、こうした取り組みをパフォーマンス管理や戦略プロセスに統合することで、リスクマネジメントを“経営そのもの”に組み込んでいる点を強調しました。
一方、ZalandoのHead of Governance & RiskであるNadine Krug氏は、デジタル企業としての「サイバーレジリエンス強化」の実践を紹介しました。
同社では、24時間体制のエンジニアリング支援や復旧プレイブックの整備、経営陣を巻き込んだ年次シミュレーション等、実効性の高い備えを運用しています。特にKrug氏が強調したのは、GRC(ガバナンス・リスク・コンプライアンス)機能の統合です。サイバー、コンプライアンス、事業リスク等を個別に扱うのではなく、これらを統合した「一つのストーリー」として経営陣に提示することで、意思決定のスピードと整合性を高めていると言います。同氏は「分断された情報では適切な判断ができないため、経営が理解し行動できるメッセージに翻訳することが最大のポイントです」と語りました。
最後にモデレーターのDeloitte Asia Pacific Enterprise Risk Leader 久保陽子氏はセッションを総括し、「領域は異なっても、浮かび上がった課題は共通しています。それは“組織内部の断片化こそ最大のリスクである”という点です」と指摘しました。
